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有田焼の弥左ェ門窯 松本家の興味深さ

J-WAVEがきっかけです。

有田焼の弥左ェ門窯の七代目の方が話していたのですが、その歴史がかなり興味深いです。

 
 
▪︎初代弥左ェ門
 
上幸平山の窯焼初代松本平左ヱ門の次男として生まれる。その後、成人し独立して弥左ヱ門窯を開く。
 
▪︎二代目弥左ェ門
 
文政6年(1823年)、弥左ヱ門の長男として生まれる。
時勢は天保の大飢饉による不景気のどん底で廃業。
親から譲り受けた家屋敷だけは守り抜きたいと遂に、家屋敷を人に貸しその家賃をもって講掛け(ギャンブル)を行い、自分は佐賀城内の成富質屋という豪家に下男として年季奉公する。思いがけず講が当たり、この下男奉公という最低の境遇から這い上がった。
 
▪︎三代目弥左ェ門
 
明治21年(1888年)、地域産業の発展のため同士とはかり、共益株式会社という一般の町民のための金融会社を設立。(この共益会社は共益銀行となり、後に合併し今日の佐賀銀行となる)
 
 

 

▪︎四代目弥左ェ門
 
弥左ヱ門窯を再興させ海外に輸出を行うという夢を実現するため、明治35年(1902年)、養父に黙って銀行をやめ、インドのボンベイに向かった。ボンベイで資金が絶えた彼は、南アフリカのダーバンへ行き着いた。ダーバンでは岩崎という唯一の日本人が洗濯屋を行っており、そこに転がりこみ、有田焼を質に金をかり、その洗濯屋を手伝う事になる。
 
▪︎五代目弥左ェ門
 
昭和16年、有田物産合資会社を継承し、株式会社有陶を設立し国内卸及び円ブロック(鮮、満、支)貿易において実績をあげる。
昭和22年、商号を有田陶磁器株式会社と変更、南方向けの食器の輸出貿易に進出する。
昭和28年、商号を現在の有田物産株式会社に変更、ゴールドイマリというブランド名で北米、欧州向け輸出に転換する。
シリアとモロッコに大得意先ができかなりの量の輸出を行う。
 
▪︎六代目弥左ェ門
 
円が変動相場制になり200円を越した辺りより、輸出は値段が合わなくなり、販売先の主力を国内市場に移す。
六代目はお酒が好きであり、平日は帰れば水割を飲み、休みの日は朝から水割を飲むほどウイスキー好きであるが、高価なウイスキーは嫌いで、サントリーホワイトが大好きである。車も高級車は嫌いでトヨタカローラを愛する誠実で素朴な男である。
 
▪︎七代目弥左ェ門
 
九州大学経済学部卒業後、某都市銀行に入社。
3年間勤めるが実家に呼び戻され家業を継ぐことになる。
身長186cm 体重90kg の野獣。
 
色々あって面白いのですが、六代目から記載内容もおかしくなってます。